子供たちの“本物の笑顔”がたくさん見れるチームに!ソレッソ熊本 サッカークラブ

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自己責任と社会責任



鹿児島のフジパン中止が決定。

 

何事もなんだが、決定を下す時にはセットで責任が問われる。

 

個人としても、組織としても、大なり小なりの決定をしていかないといけないのがコロナ禍の今。

 

そこで感じるのが、自己責任と社会責任。



どっちが良い・悪いとは言い難いものがあるし、両者は結局、良くも悪くも引っ張り合ってる関係だと思うし、


 

そうであるが故に、


 

そこは自己責任なのか?


社会責任なのか?


 

を冷静に判断しないといけないように思う。


 

社会責任というと、範囲が曖昧になってしまうが、ここで言いたい社会責任とは、


 

仕組み・制度・決まり事


 

こんなイメージか。


 

法治国家である日本は、それぞれの判断基準は法によって定められている。


 

社会の動きも法律に基づいていて、普段生活する上で、気にする事はほとんどないんだが、


 

行動そのものは、法によって守られたり、法によって縛られたりしている。


 

コロナ禍の中、どんな考えをすべきか?


 

報道番組などで、有識者達の議論を聞くのはけっこう面白いんだが、


 

大体の話は、基準をどう定めるか?


 

に終始しているように思う。


 

論理的に物事を進めるには、ある一定の基準があって、


 

それを基準に話を進めないといけないと思うんだが、


 

議論の中では、その基準の攻めぎあいが焦点になっていて、


 

何が良くて何がいけないのかは、基準をどう定めるかによって変わってしまう。


 

そう考えると、


 

自己責任なのか?


社会責任なのか?


 

身近なところで言うと、この試合に出るべきか?出ないべきか?は、


 

基準がない事には定まらず、もっと言うなら、


 

社会責任の範疇の中に、自己責任があるから、基準の整備が一番に必要なんだろう。


 

つまり、社会責任の範囲が整った中で自己責任の領域がはっきりするという事だ。


 

社会全体(の動き)、学校(職場)、家庭、クラブ(フリーな居場所)


 

大きく分けるとこの4つの立場で、我々は生活してると思うんだが、


 

それぞれで振る舞いが変わってしまうのは、本来であればおかしい。


 

コロナ禍の今、足並みは揃う事なく、それが自己責任なのか社会責任なのかさえ見えてないのが実際。


 

法律が定まってない以上、努力義務としか言いようがない中、


 

自己責任の範囲は広がってるし、その範囲が広がるほど解釈の仕方は様々で、


 

基準値をどこに持っていくかで振る舞いは当然変わる。


 

全てが自己責任になると、統制が取れなくなるのは目に見えている。


 

社会責任をもっと明確にし、例えコロナ禍であっても、ギクシャクしない日常を送りたいものだ。


 

最近、身体のキレが良く、調子に乗って昔のイメージのままデモンストレーションやったら、

 

パスした瞬間に右腿裏がピキッ。

 

大した事ないから良かったとその瞬間思ったが、段々痛みが増し、

 

ニクバ気味どころか、きっちりニクバになっている。



せっかく、色々始め直したのに、しばらく安静にしてリセット。

 

歳には勝てんな。。。

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